カトリック校宗教教育交流誌『そよかぜ』第63号(発行 カトリック中央協議会学校教育委員会)掲載の拙文を一部割愛したもの。


今こそ、カトリック学校


何年か前、クラスに、いわゆる手のかかる生徒がいた。その生徒の担任となった私は、本人や両親と何度か面接をしたり、電話で話したりということ以外にも、心理学や指導法の本を読んだり、研修に出掛けたり、随分と時間を費やしていた。

そんなある日、勤務校のシスターに相談すると、「あまり一人の生徒に時間をとるのはどうか」と言われた。普段から信頼を寄せているシスターからの意外な一言だった。もしそのシスターが担任だったら、そうしないのだろうかと疑問にも思った。そして私の脳裏には福音書の『失われた羊のたとえ』が過ぎっていた。しかしそのことはシスターには告げなかった。

それから幾年かの間、そのことがいつも引っかかっていた。なぜそのシスターは、あのように冷たいとも思えるようなことを言ったのだろうかと。

この稿を書きながら、あの時『失われた羊のたとえ』を引き合いに出してシスターに反論しなくてよかったと胸をなで下ろしている。私はこのたとえ話の教えを取り間違えていたのだから。とても恥ずかしいのだが白状すると、私はその生徒を失われた羊のように思っていたのだった。大変な傲慢稚気だった。だから探しに行くことがよいことなのだと思っていた。

実は、このたとえ話はそんなことを教えているのではなかった。イエスはこのたとえ話によって、父なる神様がどれほど一人一人のことを心に留めて大切にしておられるかを教えているのだった。失われた羊は『私』なのだった。

あの時、シスターが私に忠告したかったことは、「あの生徒のことは神様が十分に心にかけていますよ。だからあなたもそれを信頼しなさい。そして、自分のなすべきことをなさい」ということだったのではないだろうか。さらに、神様から見れば、失われた羊はその生徒だけではないことも示唆してくれたのだった。

今年の五月、マリア様の月。勤務する東京純心の御聖堂は、昼休みのお祈りの時間、中学一年生であふれかえっていた。カトリック学校としては大変嬉しいことである。しかしなぜ彼女たちはロザリオの祈りに集まってきたのか。受験突破という目標が大きなウェートを占めた小学校高学年を過ごしてきた彼女たちは、渇き、いってみれば何かに飢えているのではなかったのか。もちろん両親から愛されて育ってきた彼女たちであるが、何か足りないという無意識がある。彼女たちは、受験突破で得たものとは異次元の安心感のようなものを求めて御聖堂に集まった。

そんな時であるから、カトリック学校は問われていると思う。今こそカトリック学校は本来の存在理由を確認する時がきた。

ローマのカトリック教育省が二年半前に発布した文書に、「カトリック学校は万人のためにあり、中でもいちばん弱い者たちに配慮する学校なのだ」とある。そして、かつての物質的貧者に換わって、「人生の意味を全く持たず」「何の価値観も示されていない」「信仰の美しさについて何も知らない」(『紀元二千年を迎えるカトリック学校』15)新しい種類の貧者が登場しているとして、カトリック学校はこのような若者たちに愛を吹き込むのだと教えている。

バチカンから出た文書であるが、御聖堂でロザリオを繰りながら、まだあまり意味もわからないままに、天使祝詞を熱心に唱え、祭壇の方に向かって深々とお辞儀をする生徒を見ていると、この文書の的確さが体感できると同時に、少し切ない気持ちになった。

常に弱者の傍らに立ち、罪人さえも迎え入れたイエス・キリスト。そのメッセージは「あなたは大切な人である」ということ。教育が社会的に新たな状況に直面している今日、また、私立学校の生き残りが切実な問題となってきているが、カトリック学校の存在意義は大きい。現代を生き抜く子どもにとって、もっとも渇いているメッセージを、カトリック学校は持っているのだから。(大矢正則)

そよかぜ

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