序章 戦後日本の性教育

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  まず,戦後の学校教育における性教育の歴史を振り返っておきたい。

 日本における性教育の伝統は「純潔教育」であった。文部省は1947年の「純潔教育の実施について」(社会教育局長通達)を皮切りに,1949年「純潔教育基本要項」(純潔教育委員会),1955年「純潔教育の進め方(試案)」(純潔教育分科審議会)と繰り返し「純潔教育」という言葉を用いている。それに対して「性教育」という言葉の使用には,至って慎重である。一般にはこの「性教育」という言葉は昭和40年代以降は広く使われるようになったが,文部省では,性教育に関する最も新しい資料『生徒指導における性に関する指導』(1986年)においてさえ,「性教育」という言葉の使用には消極的な姿勢を見せている(1)。もちろん,この時代になると,「純潔教育」という言葉も使われていないが。

 戦後の性教育の実際だが,女子に対しては,「男は狼なのよ」式に,男子に対する警戒心やある種の不信感を結果的に植え付けてしまったことは否めないだろう。また,本来は徳であるはずの純潔が損得の得の方にすり替わっていった傾向もある。さらには,戦後の学校教育では絶対的なものへの依存(宗教)は排除されたことも影響し,純潔はまた単に世間体の問題へと変化していった。つまり,女子への純潔教育は空洞化していったのである。

 唯一,月経教育(その延長上の出産教育が含まれる場合も多い)に関しては,学校教育の中で広く行われてきた。といってもそれは,小学校高学年(最近はもっと下の学年で行われる場合もある)のある日,突然女子だけが暗幕の閉まる特別な教室に集められ,暗い中で主には養護教員のもと,スライドかビデオを見て,月経時の処置の仕方を「手当て」という名で教わるという形式で行われてきた。しかも,これが最初で最後の性教育ということもしばしばであった。唯一の性との出会いが暗幕の中で行われる月経教育。これこそまさしく長く続いた日本の性教育の典型的な姿なのかもしれない。性は暗く閉ざされた何か恥ずかしい面倒くさいことと,本来とは反対の定義付けをされてしまった女子児童がいはしなかっただろうか。

 一方,男子に対する性教育であるが,こちらの方はもう何もなかったといっても言い過ぎではない。暗幕の教室から出てきた女子児童がしばしば目撃したものは,野球にサッカーに無邪気に遊ぶ男子児童の姿であった。女子との対照性があまりにも顕著であった。

 1980年代半ば,性教育は動いた。エイズによってである。国内最初のエイズ認定は1985年3月(実際にはその前年)である。このころから,国や自治体はエイズに関する啓蒙のパンフレットを次々と発行していった。その中のいくつかは,中学生・高校生向けのものであり,学校を通して生徒の前に提示されるようになった。そこでは,コンドームの使用が(あたかも)勧められており(2),当初現場は混乱した。しかし,この大きな流れはうねることなく激流となっていった。避妊具―――命を作らない道具であったはずのコンドームは,自らの命を守るための道具へと役割が変化し,性教育もまたその名のもとにエイズ予防教育へとシフトしていった。

 ところで,米国でエイズが発見されたのとちょうど同じ頃,日本では「“人間と性”教育研究協議会」が設立された(1982年)。この民間団体の参画者の展開する性教育については,賛否が大きく分かれ,詳しい議論については他に委ねることとするが(3),「人権としての性」,「科学的性教育」を標榜する彼らが,ここ十数年の間推進役となり,日本の性教育の世界を活性化させた役割はきわめて大きい (4)(大矢正則)

序章の註

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