聖書に親しもう(第1話)
愛への招き

 religion(宗教)という単語は、ラテン語のreligareという単語からきたものですが、この単語の意味は「結び直す」ということだそうです。つまり、宗教とは、元々「結び直す」ということだったのです。何をどう結び直すのかと言いますと、信仰によって神に自分を結び直すわけです。

 キリスト教の立場に立てば、信仰によってアルファ(起源)であり、オメガ(目的)である神に自分を結び直すことになるわけです。

 そして、キリスト教では、ヨハネの第一の手紙に「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さった」(4.10)とあるように、神と人を結ぶものは神の愛です。すなわち、キリスト教では、「結び直す」という宗教の根本的な行為を愛においているわけです。

 新約聖書からみていきましょう。マタイ福音書に、一番重要な掟として、次のように書かれています。

そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』(マタイによる福音書22:35〜39)

 ところで、この掟はイエス様が突然言い出したことではありません。すでに旧約時代からあった古い律法です。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』は申命記6:5にありますし、『隣人を自分のように愛しなさい』もレビ記19:18からのものです。

 しかし、イエス様の教え、特に隣人についての教えは、当時までの律法学者のそれとは大きく異なります。

 上のマタイ福音書と同じ内容を含むルカ福音書を見てみましょう。

すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」(ルカによる福音書10:25〜37)

 ここは、「善きサマリア人の譬え」と呼ばれる箇所で、イエス様の「隣人愛」についての考えが示されている箇所です。

 律法学者は「わたしの隣人とは誰ですか」とイエス様に聞きました。この問いは当時の律法学者にしてみれば当然の問いだといえます。なぜなら、律法学者達は、律法を厳しく守ることによって、人は神に対して従順でいられると考えていましたから。だから、「隣人を自分のように愛しなさい」という律法を厳格に守るためには、私にとって誰が隣人かを問うことはごく自然なことでした。

 しかし、「善きサマリア人の譬え」を読むと、イエス様がこの問いに答えていない、あるいはまったく別発想・別次元の返答をしていることがわかります。

 見ず知らずの倒れた旅人に出っくわした三人、すなわち、祭司、レビ人、サマリア人のしたことを話し、誰が彼の隣人となったかを知らせているのです。

 もちろん、サマリア人が倒れた旅人の隣人となったわけです。

 この話は、相手によって隣人かどうかが決まるのではなく、自分のありようによって隣人となれるかなれないかが決まるということを教えています。換言すると、隣人愛というのは、自分のありようによって実現する、すぐれて主体的な行為だということを教えているのです。

 ところで、サマリア人とは、パレスチナのサマリア地方に住んでいた人たちのことですが、歴史的な背景から彼らは「混血児」と呼ばれ、当時、売春婦、徴税人、皮膚病者と同様に人々から蔑まれ、差別されていた人たちでした。このたとえ話の中で、隣人となった人として、サマリア人を選んで使ったことで、イエス様は「隣人愛」の本質を示しています。

 倒れた旅人とサマリア人は、歴史的な背景から敵対関係にあったわけです。しかし、祭司やレビ人と旅人の間に隣人愛が成立したのでなく、敵同士であったサマリア人と旅人の間に隣人愛が成立しました。だから、イエス様のいう隣人愛は仲良し、家族、近所、思想が同じ人間同士の関係ではないのです。対立する集団の見ず知らずの人間同士の愛。世間的・社会的にいう「隣人」から最も遠い人間同士の愛。自分の何の利益にもならない愛。「エゴイズム」を越えた愛なのです。 

 サマリア人のとった行動こそが隣人愛であることを知ることが出来たわけですが、イエス様はそこで、「行って、あなたも同じようにしなさい」と律法学者に言っています。もちろん、この「行って、あなたも同じようにしなさい」は今日の私たちにも向けられているのです。では、サマリア人のように自由に、主体的に行動するにはどうすればよいのでしょうか。そのことを考えるためには、隣人となったのが、律法学者やレビ人でなくサマリア人であったということの深みをもう少し考えてみましょう。

 サマリア人は律法に従ったから愛の行為をしたのではありません。憐れに思い助けたのです。それは人格の内から発した、内なる声に耳を傾けた自由な行為でした。神への従順は、律法の言葉への従順ではなく、自由な愛の行為としてあらわれるです。

 神の意志は、人間の思考・理解・願望を越えたところに存在します。それこそが、人間を真に主体的な存在とし、人間に自由な愛の実践を促します。なぜなら、神は愛そのものだからです。倒れた旅人には、律法学者やレビ人を通してでなく、サマリア人を通して神の意志が働きました。

いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。(ヨハネの第一の手紙4:12)

 神は、人々から蔑まれていたサマリア人の内にとどまってくださったのです。律法学者やレビ人は、結局、自分の立場に囚われて、自分を越えて発せられる内なる声、超越者の働きに耳を傾けることができませんでした。自分や自分の立場に囚われたままでは自由な愛の行為は実現しません。だから、自由になるためには、自分を神に明け渡すしかありません。人間は、面倒くさがり屋で、誘惑に弱い存在であり、易きに流されやすいからです。逆説的な言い方かもしれませんが、自分自身にすがりついていたのでは、真に主体的な行動をとることはできません。自分を神に明け渡してこそ、人間は真に主体的に自由になれるのです。神だけが人を自由にすることができるからです。

愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。(ヨハネの第一の手紙4:7〜8)

正当な人が神に近い存在であって、異端者が神から遠いのではないのです。内にとどまって下さる超越者の働きを信じ、耳を傾け愛することのできる人が神を知る人です。

 人に真の愛の実践をさせるのは、個人を越えてそれらを結びつける超越者、神だけなのです。

 神という名の真理だけが人を自由にするのです。 

あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。(ヨハネによる福音書8:32)

 神がまず人間を愛して下さいました。私たちは、その神に招かれた存在です。人は愛に招かれているのです。

(第1話おわり)

聖書の引用は日本聖書協会『聖書 新共同訳』によりました。

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