聖書に親しもう(第2話)
弱さを誇る
主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。 (コリント人への第2の手紙 12.9〜10)
人間の弱さには,暗いイメージがつきまといます。私たちもつい自分のしてしまった失敗,自分の欠点や弱さを思うと,自己嫌悪に陥ってしまうことがあります。しかし,聖書ではむしろ,こうした人間の弱さに光を見出しています。上に引用した箇所では,はっきりと,「弱さを誇りましょう」とまでいっています。
聖書は強い人間を対象に書かれたものではありません。すべての人類の救いのために書かれたものです。ですから,当然,人間は弱さをもっているということを前提として書かれています。
そもそも,人間のもつ弱さというものは,マイナスの側面しか持っていないのでしょうか。弱さは排除すべきものなのでしょうか。少し考えるとけっしてそれだけではないことに気づかされます。
まず,弱さは,人間が他人を必要としていることを教えてくれます。私たちは,自分が弱っているとき,助けてほしくなります。私たちはこうしたことを体験することによって,謙虚になってゆけます。謙虚さは成長のために絶対に必要な徳目です。
また,弱さは,神の愛の本質も理解させてくれます。どういうことかといいますと・・・。
私たちが神を愛しているから,あるいは信仰をもっているから,神も私たちを愛して下さるというのは,キリスト教の教えにはありません。「神がまずわたしたちを愛してくださった」(ヨハネの手紙一4.18)のです。それは,私たちが完璧だからではないのです。まず愛して下さったのです。これを無償の愛(アガペー)といいますが,私たちが弱いのに愛されているということは,まさに,ありのまま愛されることを教えてくれます。わたしたちは,自分の持つ弱さを通して神の愛を知ることができるのです。
そしてまたそうした体験を持った人,つまり弱さごとありのまま愛された人は,今度は自分が他人の弱さも受け容れることができるようになります。
つまり,弱さは愛へのアプローチ,神へのアプローチとなるのです。むしろ,そのために神から贈られたものととらえた方がよいかも知れません。弱さによって私たちは神の愛を知ります。
「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」(ヨハネの手紙一4.16)
(第2話おわり)
聖書の引用は日本聖書協会『聖書 新共同訳』によりました。
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