第2章 カトリックの性に関する考え方[ カトリック学校教師のホームページ ]
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| カトリック学校が,教会から派遣された存在であることを確認したことを受け,今度は,現在のカトリック教会が,性に関してどのように教えているかを見ていきたい。 キリスト教は,あらゆる人間の営みに神の意志が働いていると考えているので,当然,性や男女の問題にもはっきりした立場をとる。殊に『カトリック教会のカテキズム』は,今日の人間のありようを踏まえた上で明確な教えを説いている。この『カトリック教会のカテキズム』は,第2バチカン公会議開始30周年を記念して,1992年12月に教皇ヨハネ・パウロ2世が公表したカトリックの教義要覧で,バチカン公式のカテキズムとしてはTrentの公会議以来,約400年ぶりにまとめられたものである。現在のカトリック教会の教えを理解するには,これに依るのが最も適切であるので,この中から,本稿に関連のある部分を引用しながら,性に対するカトリック教会の立場を明らかにしていきたい。なお,『カトリック教会のカテキズム』は今日までに多くの言語に翻訳されて刊行されているが,日本語訳はまだ出版されていない(1999年4月時点)ので,英語訳“Catechism of the Catholic Church”(1)をテキストとた。
男女観―――神が男と女をお造りになった 『カトリック教会のカテキズム』中で,性や男女の問題に関する記述は,第1部“The Profession of Faith”および第3部 “Life in Christ”の中に見つけることができる。そこでの教えは,聖書はもちろんのこと,他に,第2バチカン公会議『現代世界憲章』(2),“Donum vitae”(3),“Familiaris consortio”(4),“ Mulieris dignitatem”(5),“Humanae vitae”(6),“Casti connubii ”(7),“Populorum progressio”(8)等の教書がベースとなっている。なお,これらを見てもわかるように今世紀のカトリック教会が発した回勅やメッセージの中で,生命倫理関係のものは大変多い。 ではまず,Part One“The Profession of Faith”の中に,カトリックの男女観が明確に述べられている箇所があるので,少し長いが引用しておきたい。以下で[ ]の中の数字は,“Catechism of the Catholic Church”に付された通し番号である。
つまり,カトリックの男女観は以下のようなものである。 純粋な霊的存在である神は男でも女でもないが,神ご自身のお望みで男性と女性を創造した(willed by God)。男性も女性も人格としてはまったく平等(perfect equality as human persons)であるが,男性は男性としての生き方を通し,女性は女性としての生き方を通して,無限の存在である神の完全性の一部を映し出している(reflect the Creator's wisdom and goodness)。そして,神は,聖書の中に「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」(9)とあるように,男女に,互いに補い合う存在として助け合うように望まれる(willed each for the other)。男性は,神が創造した女性を見たとき,「これこそ,わたしの骨の骨,わたしの肉の肉」(10)と,女性の中に同じ人間性を分け持ったもう一人の「私」を発見する(discovers woman as another "I", sharing the same humanity)。すなわち,人間は異性を通して自分を発見するものなのだ。 しかし,神は男性と女性を中途半端で不完全(half-made and incomplete)なものとして創造したのではない。むしろ,互いに良い助け手(helpmate)となるように異なった存在として創造したのである。 さらに神は結婚において男女を一致させ,「一つの肉体」(one flesh)となることによって,子孫を残すようにした(transmit human life)(11)。このことは,人間が独自の仕方で創造主の御業(Creator's work)に協力(co-operate)するよう招かれていることを示している。ただし,それは結婚している男女に限られている(man and woman as spouses and parents)。
このように,カトリックの性に対する見解は明確である。まず,神が人間を二つの異なった性を持つ存在として造ったとしている。それは神がお望みになったからである。したがって,人間に二つの性が存在することはよいことなのである。そして,それは男女を結婚へと導き,夫婦の性の交わりを通して神の創造の一部に人間を参加させるものなのだというものである。ここには絶対者としての神への全面的な信頼が基底にある。 この第1部の宣言(profession)を受けて,第3部では,これらのことがらを,生きていく中(life)でどう実現していったらよいか教えている。その点を見ていきたい。
この引用は,“The love of husband and wife”という小見出しの冒頭からのものであるが,ここでも,まず,異なった性をもつということ(sexuality)が,夫婦間の愛に向けられているのだと宣言している。カテキズムではこのあと,「男女が配偶者のみとの限られた固有の行為を通じて自分を互いに与え合う性は,決して生物学的なものではなく,まさに人間の最も深い存在そのものにかかわるものです。性というものが,死に至るまで男女が互いに自分にすべてをささげ合う愛の統合された部分であるなら,それはまことに人間らしい仕方で実現されているのです」(12)という教皇ヨハネ・パウロ2世のメッセージを引用し,さらに「夫婦を親密に清く一致させる行為は正しい。そして品位のある行為である。そのような行為は,真に人間らしい方法で行われるならば相互の与え合いを意味し,これをはぐくむ。夫婦はこの相互の与え合いによって,喜びと感謝のうちに互いを豊かにする」(13)と『現代世界憲章』から引いている。それを受け,
性は喜びと満足の源泉であると高らかに宣言する。これほどまでにカトリック教会が性を肯定的にとらえていることは,一般には意外と知られていないのではないか。続けてピオ12世の1951年の講話から次のように引用している。
つまり,夫婦が生殖機能(generative function)において,肉体と精神の喜びと満足感を味わうことは,神が意図したことなのであるからなんら悪いことでない。これは,夫婦間のセックスが単に子供をつくることだけを目的としたものではないことを意味する。ただし,夫婦は正しい節度を守らなければならないと教えている。
結婚―――神の創造への協力 したがって,結婚の目的もまた当然,生命の伝達,つまり子供をつくることだけにおいてはいない。カテキズムは,
と,結婚の二つの目的として,夫婦自身の幸福(the good of the spouses)と子供を産み育てること(the transmission of life)をおき,それらは夫婦間の交わり(the spouses' union)によってなし遂げられることを教えている。 ただし,この二つの目的は,単に二つというのではなく二つ重なり合った目的(the twofold end of marriage)であり,不可分である点を見落とすとカトリックの教えから大きく外れてしまう。もし,これらの二つの目的が分離してしまったら,夫婦の生き方は荒み,自分たちの幸福も家庭の将来も損うこととなる。第2バチカン公会議においても,この点を特に注意し『現代世界憲章』の中で,「若干の緊急課題」の第1として,これらの婚姻と家庭の問題を取り上げている (14) 。 夫婦間の愛は,互いを神からの贈りものとして尊重し合うことと,新しいいのちを引き受けるという覚悟の上にのみ成り立つ。快楽を求めるだけでは,夫婦である意味も必要もないし,それはまた,新しい生命を否定することへと繋がる。 つまり,教会は夫婦の交わりの意味を子供をつくることだけにおいてはいないが,賜である出産に開かれていない夫婦の交わりを許さない。“The fecundity of marriage”と小見出しの付いた節の中で,カテキズムは,
と,出産を賜(gift)でありかつ結婚の目的(end)であるとしている。そして,子供は相互の与え合いの結実のあらわれであるという。それに続けて,“Humanae vitae”から「一つひとつの夫婦行為は,それ自体,命の誕生に向けられていなければならない」(15),「教会の教導職がいつも説明してきた教えは次のようなものである。すなわち,夫婦間の行為において,互いが一致することの意義と新しい命をつくることの意義との間には,切り離すことのできない関連性があり,それらは夫婦間の行為を決定づけている。神がそのように関連づけたのであり,人間が自分たちの意志で切り離すことは許されない」(16)と引いている。 そして,
と,夫婦が新しい生命を与えるように招かれていることによって,神の創造の御業に参加することを告げ,『現代世界憲章』から「夫婦は人間の生命を伝達し,人間を育てる任務を自分たちの固有の使命と考えなければならない。この任務において,夫婦は自分たちが創造主なる神の愛の協力者であり,いわばその解釈者であることを知っている」(17)と引用し,このことを繰り返し述べている。
避妊の問題 さて,ここで問題になってくるのは,夫婦間の出産調整,いわゆる避妊の問題であろう。夫婦が性を共にすることのよさを,完全に生殖目的だけととらえず,同時に夫婦に喜びをもたらすものであるとする教会はこの問題にどう答えているのか。1987年の『生命のはじまりに関する教書』の答えは,「避妊は夫婦の行為から生殖の可能性を故意に排除するものであり,結婚の二つの目的の間に意図的な分裂をもたらす。これと同時に,配偶者間の人工受胎は,夫婦の営みの実りとしてでない生殖を求めることによって,事実上,結婚の意味および成果における分裂をもたらす」(18)である。つまり,教会は避妊にノーと宣言している。 しかし,カトリックでも,夫婦間の避妊の方法がまったくないわけではない。
と,利己主義的な動機に依るのではなく,親としての正しい責任に基づいた出産調整(space the births)の可能性を示している。ただし,客観的な倫理基準に従った仕方を条件づけている。その倫理基準に従った方法とは,“Humanae vitae”に「夫婦の肉体的・精神的状態や外的要因のために,子供をつくる間隔をあけるまっとうな理由があるのなら,生殖機能の自然周期を計算して妊娠の可能性のない期間にのみ夫婦行為を行うことは倫理的に許される,と教会は教えている。こうして夫婦は道徳を汚すことなしに自分たちの家族計画を立てることが可能である」(19)とあるように,女性の排卵周期を利用する方法を指す。排卵法による受胎調整である(20)。この方法が,いわゆる避妊法の範疇に入るかどうかという問題もあるが,教会がこの方法を許容することによって,カトリックでは,出産を前提としない,夫婦だけのためのセックスを許容していると見ることができる。 ただし,教皇ヨハネ・パウロ2世の“Familialis consortio”に,「避妊に頼ることによって夫婦が,「男と女」としての存在にまた夫婦の性の交わりの中に創造主が刻み込まれた前述の二つの意味を切り離してしまうと,その「全面的に」自己を与えることの価値を変質させ,神の計画の「裁き手」となり,性を(またそれと共に自らと配偶者をも)「操作」し品位をおとしめていることになります。このように,夫と妻が全面的に相互に与え合うことを本来意味する人間の性という言語は,相手に自己を全面的に与えないことを意味する避妊とは客観的に矛盾し相入れないものです。避妊は生命に開かれていることへの積極的な否定であり,人格全体において与えるように呼ばれている夫婦愛の神からの真理を偽るものです。それと異なり,不妊期間を利用して,夫婦が一致と出産の意味の切り離すことのできないつながりを尊重するとき,神の計画の「奉仕者」として行動し,性を操作したり変質したりすることなく「全面的に」自己を与えるという本来のダイナミズムにしたがって,性を「享受」するのです」(21)とあるように,教会はこの周期リズムを利用した受胎調整と,器具を用いるようないわゆる避妊をはっきりと区別し,後者を完全に否定している。
人工妊娠中絶 次に,人工妊娠中絶の問題を見てみる。
“Abortion”(中絶)という小見出しの付いた節の冒頭からの引用であるが,ここにカトリックの中絶に対する考えが凝縮されている。その立場は明白である。受精の瞬間(the moment of conception)から人のいのちは尊重され保護を受けることを絶対(absolutely)としている。そして,その瞬間から罪のない存在として侵すことのできない人権を認めている。この見解は聖書の「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前にわたしはあなたを聖別し諸国民の預言者として立てた」(22)を根拠とするものであるが,同時に,イエスの「最も小さい者の一人にしたのは,わたしにしてくれたことなのである」(23)という句を引用するまでもなく,最も弱いものの側に立つというキリスト教の基本姿勢に依っている。イエスは神でありながら,最も弱い人間として十字架についたのだった。この後に従うことが,キリスト教の教える人の道である。したがって,
と続け,教会が成立以来,人工妊娠中絶を不道徳な重大な悪と断言してきたこと,それは今後も不変であることを宣言している。 カテキズムは“Abortion”の節を“THE FIFTH COMMANDMENT ”の項の中においている。カトリック教会は第5戒を「殺してはならない」(24)としているから,人工妊娠中絶を殺人と見ている。
貞潔ということ 男女観から始めて中絶の問題まで,性教育に関連するカトリックの教えを見てきたわけだが,最初の男女観のところで見たように,まず,絶対者としての神への全面的な信頼が基底にあったわけである。しかし,逆に神も異なる二つの性を人間にお与えになり,結婚による一致を通して新しいいのちを誕生させることによって人間を神の創造の協力者としたわけだから,神の方もまた人間を篤く信頼していること示している。 このように,人間が絶対者である神に全面的に信頼をよせることと,弱い人間が神からの信頼に応えてゆくことは一対になっている。これを,聖書では契約と呼び,具体的に十戒という形で神は人間に示した(25)。その中の第6戒「姦淫してはならない」(26)が,唯一,性に関する直接のcommandmentであり,ここに人の性に関する教えがすべて含まれているという解釈を教会は伝統的にとってきた(27)。福音書中のイエスも「あなたがたも聞いているとおり,『姦淫するな』と命じられている。しかし,わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも,既に心の中でその女を犯したのである」(28)と厳しい。 ここに,カトリックの性に対する考えの根幹である貞潔思想を見ることができる。 カテキズムから引く。
ここで,貞潔に関する教えは以下のようである。 貞潔(Chastity)は人間として性がうまく統合されている(successful integration of sexuality within the person)ことを意味し,人間に心身の霊的な統合(the inner unity of man in his bodily and spiritual being)をもたらすものなのである。性があるということは人間が肉体的には動物社会に属している(belonging to the bodily and biological world)ことを表すものだが,人間の性は,一人の男性と一人の女性が生涯にわたって完全に互いを与え合う(the complete and lifelong mutual gift of a man and a woman)関係を築くことによって,人格を高めるもの(personal)となり,真の意味で人間らしいもの(truly human)となるのである。つまり,貞潔の徳(the virtue of chastity)によって人間は人格的にも完成し(the integrity of the person),全面的に捧げ合う(the integrality of the gift)存在となるのである。 貞潔な人(the chaste person)は自らに委ねられた生きる力と愛する能力(the powers of life and love placed in him)を高潔なまま持ち続ける(maintains the integrity)。人格の統一性(the unity of the person)は貞潔を守ることによって保証される。したがって,貞潔を守ろうとする人はそれを侵すようなあらゆる行動に抵抗するのである。二重生活(a double life)や二枚舌(duplicity in speech)を決して許容しない(29)。 貞潔は,いかに己を支配して(self-mastery)人間的な自由を獲得するかを学ぶこと(an apprenticeship)でもある。そこで,情欲を支配して平和を得るのがよいか,情欲のままに身を任せ不幸になるのがよいかは自明なことである。
このように,教会は貞潔を,人格を完成させるものとしており,それは自分自身を支配し,自ら獲得していくものだと教えている。続くカテキズム[2339]では,「したがって人間の尊厳は,人間が知識と自由な選択によって行動することを要求する。このような選択は人格としての内面的な動機に基づくものであって,内部からの盲目的本能や外部からの強制によるものであってはならない」と,『現代世界憲章』の「自由の尊さ」の項(30)から引用している。 そして,さらに
と,自分を支配するという仕事が,誰にとっても一生涯かかっても完全にはなし遂げられない厳しい仕事であるため,すべてのライフステージにおいて人は努力しなければならないこと(31),また,個が形成される過程である幼児期から青年期にかけては,貞潔を守る努力がいっそう強く求められることを教えている。 ところで,次に続く下の一節は,人間が弱い存在であるがゆえに,現実的には重大な意味をもつものとなる。
つまり,貞潔は,通常は不完全な段階を通して成長していくものなのだと説いている。特に,それは罪に汚れた(by sin)段階を経ることから始まるものだという。続いてカテキズムが引用する教皇ヨハネ・パウロ2世の「人間は神の思慮深い愛のこもった計画を,責任を持って生きるように招かれており,数多くの自由な決断を通じて日々自己を築いていく歴史的な存在です。ですから人間は成長するにつれて道徳的善を知り,愛し,それを実現するのです」(32)というメッセージは,聖書の「全能のゆえに,あなたはすべての人を憐れみ,回心させようとして,人々の罪を見過ごされる」(33)という全能の神への賛歌を想起させる。神は人間への愛を忍耐によってお示しになる。 次に,カテキズムは,
と,貞潔の徳の形態として,夫婦間(spouses)の貞潔,連れ合いに先立たれたもの(widows)の貞潔,独身者(virgins)の貞潔の三つの形があると教え,これら三つの貞潔の形態に,優劣はないと説いている。つまり,既婚者は夫婦生活の中で貞潔を生きるように招かれ,それ以外のものは節制(continence)によって貞潔を守るように招かれていると教えている。そして,特に婚約中の恋人同士に配慮し,
と,具体的なメッセージを送っている。すなわち,婚約中の者は節制によって貞潔を生きることに招かれおり,彼らはこの期間に,互いに尊敬し合うことや忠実であることとはどういうことなのかを学びながら,互いが神から与えられるのを希望をもって待つべきである。夫婦愛固有の愛情表現は結婚するまで保留すべきで,婚約者同士は互いに貞潔の徳が高まるように助け合うべきであると教える。 なお,詳細は割愛するが,カテキズムはこの後,貞潔に反する罪(Offenses against chastity)として,淫行(lust)[2351],自慰(masturbation)[2352],姦淫(fornication)[2353],ポルノ(pornography)[2354],売春(prostitution)[2355],強姦(rape)[2356]を挙げている。これらはどれも,人間が性をもつことの意義である夫婦間の一致の喜びを妨げるものであるし,新しいいのちの誕生へと開かれておらず,性を目的や手段として用いたものであるので,教会は激しく退ける。(大矢正則) |